RaIN-drOP


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「……にぃ」

 膝に乗せた子猫が鳴く。

 豪雨に震える子猫を手のひらで暖めてやりながら、ルノは咥えた煙草に百円ライターで火をつけた。

 燃え種はチリチリと灰化していき、たなびく白煙が雨夜に溶ける。

 子猫を拾ったのは、ほんの数分前のことだ。

 雨の中、傘も差さずに河原を散歩していたルノは、草むらに黒いかたまりが落ちているのを見つけた。

 近寄ると、腐敗した肉の匂い。カーボンの矢に全身を貫かれた猫の死骸だった。

 誰かが嗜虐的欲求の充足のためにでも殺したのだろう。くたびれたヌイグルミのようになったそれを持ち上げてみると、その下に小さな毛むくじゃらがうずくまっていた。

 生まれて間もない子猫だった。身体中泥にまみれ。毛並みはグシャグシャ。元の毛色も分からないほど汚れきっている。まだ産まれて間もないせいか、やにのこびりついた目を開けることもできないでいる。

 痩せこけたそれは、親猫の死骸に寄り添い、出ない乳を吸いながら、雨に打たれて震えるだけのゴミだった。

 背中に触ると子猫はちっぽけな身体をますます丸め、か細い声で『にぃ』と鳴いた。

 ルノは両手で子猫を持ち上げた。

「拾ってあげる。おまえ、可愛い声で鳴くから」

 それが数分前の出来事。拾った子猫を膝に抱え、ルノは鉄橋の下で雨宿りをすることにした。

 強くなった雨はカーテンのように夜を白ませ、遠くに見える街の灯りをぼやかしている。

 甲高い警笛。

 頭上の鉄橋を電車が通過し、けたたましい車輪音が橋の下に響き渡る。轟音や振動は子猫には恐ろしいものだろうが、ルノにとっては慣れた音だった。

 最後の車両が線路を踏み去っていき、金属の残響と生暖かい風が河面を波立たせながら吹き抜けていく。

 前髪を風がなぶるままに任せ、ルノは紫煙を深く胸に吸い込んで──手慣れた様子で煙草を川に放り捨てた。

 電車の音で馬鹿になっていた耳が、誰かが歩いてくる音をとらえたからだ。

 巡回中の警官だろうか。だとすると見つかるのはまずい。喫煙の証拠は隠滅したが、中学生が夜中にこんな場所をうろついているのを見られたら、どうなるかは明らかだ。

 交番へ連れて行かれてしつこく名前を聞かれ、挙げ句学校に連絡を入れられて親を呼び出される。そうなるのは非常にまずい。

 なら、見つからなければいいだけの話だ。ルノはそう考え、その場から動くことをしなかった。。

 橋の下まで警官が覗きに来たことはない。この暗闇だ。じっとしていれば気付くこともなく去っていくだろう。ルノは常習犯だった。

 だが、やってくる足音が警官のものとは違うことに気づく。どうやらかなり急いでいるようだ。なのに、その足取りはひどくたよりない。

 ──怪我をしている?

 片足を引きずる音。荒い呼吸。自分の現状に対する苛立たしさの気配。まず間違いなく負傷している。

 雨音に混じる小さな音に耳を澄まし、ルノはいっそう闇に身を潜めた。

 足音のぬしはだんだんと近づいてきて、一瞬足を止めたかと思うと、転がるようにして──いや、実際土手を転がって──鉄橋の下まで落ちてきた。

 転がった人影はうめき、震える両手をついて起きあがった。

 そのシルエットは大きい。

 男だ。暗いせいでよく見えないが、安っぽいワイシャツを着て、短い髪を獣のように逆立てている。チンピラの格好そのままだ。

 初めて間近で見る、ルノの日常には存在しない人間。そして決定的に彼を日常から切り離す物体が、その手には握られていた。

 銀色の凶器。

 人を殺すためだけに作られた、機能的なそのフォルム。男の形姿に、その美しい拳銃はあまりにも不釣り合いだった。

「ぜぇっ……ぜぇっ……はっ……ぜぇっ……っ……」

 男がルノに気付いた様子はない。自分が逃げてきた方向へ意識が向いているせいだろう。そうでなければ息がかかるほどの距離に座っている人間に気付かぬはずがない。

 ルノは息を潜めながら、男の銃に目を奪われていた。虎の刻印が彫られた細身の拳銃。泥と血にまみれていながら、まるで装飾品のように輝いている。

 男は土手の向こうを睨み、ルノは男の銃を見つめる。

 その状態がどれくらい続いただろうか。

「───にぃ」

 膠着状態を破ったのは子猫のひと鳴きだった。

「っ、是誰!?」

 男は後ろに跳び退(ずさ)りながら、銃を構えた。

「……………」

 ルノは軽く息をついて、男の誰何(すいか)に答えた。

「こんばんは」

「什、公?」

 挨拶を返されるとは思っていなかったのだろう。男は間抜けな返事を返して───苦痛に顔をゆがめる。押さえた脇腹からは赤い血が花びらのように拡がっていた。

 足下すら覚束無くなった男は草むらに膝を突いた。

「おじさん、怪我してるの?」

 ルノが騒ぎもせずに平然としているからか。落ち着きを取り戻した男は銃口をルノから外し、額に浮いた脂汗をぬぐった。

 そして改めてルノを見やる。

「制服……? ……学生文祥的時間做着什公?」

「? わかんないよ。日本語でしゃべって」

 こちらの言い分は伝わっているのか、男は苛立たしげに舌打ちして、

「………。乞食どもに輪姦されたいのかって言ったんだよ」

 流暢な日本語で、不謹慎な発言をした。

「リンカン? リンカンって何? ホームレスのおじさん、みんないい人だよ。たまにご飯分けてくれるし」

「……学生が乞食にたかるな」

 疲れたように言って、男は鉄橋を見上げ、ルノの口をふさいで押し倒した。

 こめかみのすぐそばで、ガチリと撃鉄が起きる。

「動くな。静かにしてればじき終わる」

 男はルノにのしかかったまま、鉄橋の架かる土手を睨みつける。

 仰向けに押し倒されたルノは逆さまの視界で男と同じ景色を見た。

 ハイビームの明かりが闇を押しのけ、燃費の悪そうなエンジン音と砂利を噛むタイヤの音が聞こえてくる。

 数秒とかからずに数台の車がやってきて、鉄橋付近でスピードをゆるめた。

 黒塗りの外車は何かを探すように──むろん探しているのはこの男だろう──土手を蛇行していたが、ここにはいないと判断したのか、道の向こうへと消えていった。

「……行ったか」

 撃鉄を押さえて銃爪(ひきがね)を引き、銃を腰に戻す。煙草と錆鉄の臭いがルノから離れた。

「悪かったな。もう行っていいぞ」

 犬でも追い払うように男は手を振った。ルノは不服そうに目を細め、

「やだ」

 と告げた。

「……なんだって?」

「だって、外、まだ雨降ってるもの」

 拗ねたように言うルノの眼前に、銀色の拳銃が顕れた。奈落のように暗い銃口が、ルノの胸に押し付けられる。

「……雨に濡れて家に帰るのと、ここで撃ち殺されるのと、どっちがマシくらいかは分かるだろう」

 降りていた撃鉄が硬い音を立てて引き起こされる。向けられた銃は死神の大鎌だ。指の動き一つでルノの命はたやすく刈り取られてしまう。そして男の殺意は本物だ。

 それなのに彼女は、恐ろしい銃ではなく、男の方に視線を向けていた。

「わたしを殺すの?」

「必要ならな」

「じゃあ、今は必要ないんだね」

 ルノは微笑んだ。

「な……」

 毒気を抜かれるような、無邪気な笑み。

 銃を突きつけられ、それでも笑うことができる。そんな人間が居なかったわけでもない。

 だが、少女の笑みは根本から違う。純粋に喜びだけを表す笑顔。それは死神さえも追い返してしまう最上級の笑顔だ。

 男はしばらくルノを睨みつけていたが、根負けしたように銃を降ろした。

「……雨が上がったら家に帰れよ」

 バツが悪そうに舌打ちして、土手を登っていく。

 彼が向かった先にはちょうど鉄橋の骨組みが壁となり、大人が三人は入れるスペースが空いていた。こういうところにはよくホームレスが住み着くのだが、この辺りには昔から『出る』噂が絶えず、鉄橋下の空間は綺麗なものだった。

 砂埃の溜まったコンクリートの床に腰かけ、男はようやく身体を楽にした。もうルノを追い払う気は失せたようだ。

「……。なあ、煙草持ってる───わけないか」

 男は自嘲するように首を振って、緑のラベルが目に入る。見覚えのあるその箱に視線を上げると、

「ん」

 マルボロを差し出したルノは、すでに煙草をふかしていた。

「……悪いガキだ」

 自前のジッポで火をつけ、メントール入りの紫煙を肺に入れる。

 瞬間、男は激しくむせ、血の混じった煙を吐いた。

「っ………肺にまで穴ァあいてやがったか」

 暗がりで分からなかったが、よく見ればシャツの血が大きく広がっている。早急に手当をしなければ命に関わるのは明らかだ。それほどの出血でありながら、男は血止めもしようとしていない。

「おじさん、病院行かなくていいの?」

「その『おじさん』っていうのはやめろ。オレはまだ21だ」

 顔をしかめて答える男に、ルノはきょとんとした後、くすくすと笑い出した。

「『まだ21』じゃなくて、『もう21』。私から見れば充分おじさんだよ」

「……やかましい。とにかくおじさんってのはやめろ。オレにはオヤジからもらった武虎という名前がある」

「ウーフー? 変な名前」

「おい。その言葉いますぐ取り消せ。親父からもらった名だ。馬鹿にする奴は、たとえ子供でも容赦しねェぞ」

 獣のように牙を剥く男───武虎は本気で怒っているようだ。燃えるような眼で睨みつけてくる彼に、ルノは涼しい顔で彼の横を通り過ぎ、

「わたし、高宮琉乃。西桜中学の二年生。好きなものはサーティワンのベリーベリーストロベリーで、嫌いなものは、家と学校かな。………あ、そうだ、琉乃って言う字はこうやって書くの」

 積もった埃を画板に見立てて、指先で名前を記していく。怒気をすかされた武虎はいぶかしげに眉をひそめた。

「……なにやってんだ、お前?」

「なにって、自己紹介?」

「初対面の男に身元バラすかよ普通。個人情報悪用されても知らんぞ」

「もうすぐ死んじゃうのに?」

 ルノはなんの悲哀もなく言った。

「だから何を話しても大丈夫だよね。ほら、死人にヒナゲシって言うし」

「…………。それを言うなら死人に口なしだ。あと『クチナシ』は植物の方じゃないからな」

「そうなの?」

「そうだ」

「でも、ウーフー、頭悪そうだし」

「ぬかせ。不良のガキより学はある。───つか、なに呼び捨てにしてやがる」

「? いやなの?」

「年上には『さん』付けが常識だろうが。日本人のクセに礼儀がなってねェぞ」

「あー、それって偏見だよ。それにさっきはおじさん扱いしたら怒ったくせに」

「あァ? 誰がおじさん───」

「じゃあ、わたしのこともルノって呼んでいいよ」

「……お前のすっ飛んだ思考はさておき、あくまで俺に敬意を払うつもりはないわけだな」

「親しみがあっていいでしょ?」

 ルノは床のホコリを払い、武虎の隣に腰掛けた。手に抱いていた子猫を膝の上に戻し、布団のようにスカートを折り返してかぶせてやる。

「………捨て猫か?」

「そこの河原で拾ったの。お母さん猫は死んでた」

 指先で鼻をくすぐると、甘えるように子猫は頭をすり寄せた。






「そいつ、どうするんだ? お前が飼うのか」

「うん。可愛いから飼ってあげる」

「可愛いから、ね。ずいぶんと勝手な言い草だな。可愛くなくなったら捨てる気か?」

「うん。捨てるよ」

 なんら悪びれるところなくルノは答えた。

「人はね、可愛くないものは自分のそばに置いたりしないの。好きでもないものに優しくなんて出来ないもの」

 髪に隠れた少女の横顔。そこからのぞく笑みはひどく歪んでいた。

「だって『人』はそういうモノだもの」

 罵られて、踏みにじられて、唾を吐きかけられて。そうやって生きてきた者だけが魅せられる歪んだ笑み。

 武虎はその笑みを知っている。なぜなら彼もまた彼女と同じだからだ。

「お前……」

 顔を上げたルノは、叱られた子犬のようであり、男を識る妖婦のようでもあった。

 少女の瞳から逃れられない。うだるような熱が武虎の頭を蕩めかしていく。

 さっき会ったばかりの女、それもこんな子供に覚えるような感情ではないはずだ。

 だが、彼の本能は『少女を喰いたい』と顎を咬み鳴らしている。

 全く違う境遇で、合わせ鏡のように酷似した歪みを持つ少女。 武虎が惹かれるのはごく自然なことだった。

「ウーフーは優しく『して』くれる?」

 濡れた瞳と哀しげな笑みを向けてくる少女に、理性の鎖が千切れた。

 武虎は血塗れの手を伸ばして、彼女の白い頬に触れた。

 血に汚れることもかまわず、ルノは彼のするがままに任せる。固く熱い指は細い輪郭をなぞるように柔らかな髪に差し入り、少女の顔を上向かせる。

 瞳を閉じたルノに武虎は顔を寄せ───ゴスンと音がするほどの勢いで頭突きした。

「へぐっ!?」

 不意を打たれた衝撃にルノは目から星を飛ばす。

 クラクラと頭上で小鳥の幻を周回させたあと、

「ひ、ひどいよウーフー! なんでぶつの!?」

 赤くなったひたいを抑えて、ルノは涙目で抗議する。

 それを受け、武虎は痰唾を吐き捨てた。

「ガキが知った風な口きいてんじゃねェ」

 苛立たしげな口調。

「可愛げが無いなら人に好かれる方法を考えろ。優しくされたいならまず相手に優しくしろ。───ああ、したんだろうさ、お前は。それでも駄目で、裏切られ続けてきたんだろう。だがな、いいか、聞け。そんなことは『当たり前』なんだ。世界は平等でも等価でもねェんだよ。搾取される事を嘆くやつは一生搾取されるだけだ。それが嫌なら自分の力で変えろ。くだらないまま有限の一生を浪費したいならそれでもいいがな」

 肺が痛むくせに、チリチリと煙を吸い込んで、武虎は口端を吊り上げて笑ってみせた。

 ルノはひたいを押さえたままうつむいて、言った。

「……ウーフーは優しくない……」

「当たり前だ。ヤクザもんに何を期待してやがる」

「でも、優しいね」

 うれしそうに微笑むルノに、武虎はげんなりとうめいた。

「お前、馬鹿だろ」

「ウーフーもね。せっかく中学生とチューできるチャンスだったのに」

「……お前な、それで済むと思ってたのか?」

「Hしたかったの?」

 何気ないルノの発言に武虎は激しくむせた。

「……露骨に言うな。だいたいガキ相手に勃つワケねェだろ」

「ふーん」

「…………。……ンだよ」

 あさっての方向を見ながら煙草の灰を落とす武虎を、ルノは見透かしたような半眼で見やる。

「べーつーにー。ウーフーは素直じゃないなぁ、って思ってるだけだよ?」

「……本気でむかつくガキだな、おい」

 舌打ち混じりに悪態をついて、武虎は口元をゆるめた。笑みと言うにはずいぶんと皮肉げな笑い方だったが、ルノはその表情が可笑しくて、一緒になって笑った。

 目の開かない子猫は『どうしたの?』と尋ねるように、にぃと鳴いた。


「───あー、可笑しかった」

「そこはかとなくムカつくが、なんについて可笑しかったのかは訊かないでおいてやろう」

 ほとんど吸うこともなくフィルターだけになってしまった煙草を、武虎は床に押しつける。その手にルノの手が重ねられた。

「ねえ、ウーフー」

「なんだ。色仕掛けならもう効かんぞ。……いや、最初から効いてなどいないがな」

 武虎は言い訳がましく言いながら、ルノの胸ポケットから煙草を一本抜いて口端に咥える。

 ルノは少しかすれた声で、つぶやくように懇願した。

「病院、行こうよ」

「………。納得してたんじゃないのか?」

「うん。でも死んで欲しくなくなっちゃった」

 照れたように微笑むルノに、武虎は鼻を鳴らす。

「は、オレに惚れたか?」

「そうみたい」

 初めてだからまだよく分らないけど。ルノはそう付け足した。

 胸に残るのが愛惜だと気づき、武虎は忌々しげに未練と紫煙を呑み込んで、苦く、淡々と答えた。

「間に合ってるよ」

「……。ウーフー……」

「泣きそうな顔するな。さっきとは別人だぞ。歪んだ女がただのガキに戻っちまったか?」

「だって……」

「ついさっき会ったようなヤクザものに同情なんかするな」

 突き放すように武虎は言うが、ルノは目をそらそうとしない。

 逃げたのは彼の方だった。

「………行けないんだよ」

「どうして?」

「オレは鉄砲玉だからな」

「……………」

「撃った弾が戻ってくるなんておかしいだろ? オレは無様に生き残っちまったからな。捕まれば身元が割れちまう。だからここをオレの墓場にしなきゃならないんだ」

「……そんなの、知らないよ」

「そうだな。お前の知った事じゃない」

 変わることのない笑み。覆ることのない決定。

「……ウーフーが行かないって言うなら、ここで大声出す。見つかっちゃいけないんでしょ? だから───」

「その時はお前を殺す。それだけだ」

「………本当に殺すの?」

「言ったはずだ。『必要なら』と」

 そして溶けることのない殺意。

 押し黙ったルノに、武虎は殺意を収めることなく、だが、恋人にするように彼女を見た。

「だけど、だから、頼んでいいか」

「……なに?」

「話し相手になってくれないか? オレが、眠るまで……」

 ルノは唇を噛んで、こみ上げた涙をぬぐって、最後は微笑んでみせた。

「……。うん、いいよ」

 それから話したことは、本当に他愛のないことだ。

 故郷の町並みの話。近所の美味い中華料理店の話。実は盆栽が趣味だという話。

 武虎が話し疲れたら、ルノがその後を引き継いだ。

 秘密の隠れ家の話。サーティワンのミントチョコは食べれたモノじゃないという話。自分に付き合えと言ってきたいけ好かない男子を再起不能になるぐらいこっぴどくフってやったときの話。

 ルノは生まれて初めてかも知れないくらいに、たくさんのことを話した。武虎もきっとそうだったろう。そのほとんどは意味のないものだったけれど、時を惜しむように、出会ったばかりの少女とチンピラは、別れまでのわずかな時間を共に過ごそうと懸命だった。

 その間も、武虎の呼吸は細く、浅いものになっていき、

「ウーフー?」

 寄り添っていたルノが武虎を見上げる。

「……悪いな。そろそろみたいだ」

「そっか。お別れだね」

 ルノは気楽に答え、武虎は虚ろな目を悔しそうにゆがめた。

「……畜生、暗いな……。お前の顔が見えねェ……」

「大丈夫。笑ってるよ、ウーフー」

「……そうか……ならいい……。お前が笑ってるなら……俺も……笑って……逝…ける……」

 武虎の声が、ごぼごぼと濁る。喉に溜まった血膿も吐き出せず、身体もそれを異常と感じない。

 彼の命の灯あとほんの数秒で消えてしまう。

 ルノは煙草の匂いが染みついた胸に顔をうずめ、崩れかけた笑顔を隠す。それを許すように無骨な手が優しく髪をすいた。

 そして、彼らは最後の言葉を交わす。たった一言、とても大事な一言を。

「お休み、ウーフー」

「お休み、ルノ……」

 一度だけ、深い深呼吸。彼の吐息が尽きたとき、駆け抜けた風が武虎の魂を運んでいった。

 武虎は最後までルノに寄りかかることなく、ルノは涙を零すことなく、風だけが二人の別離を告げていた。

 ここに武虎はもういない。あるのはかつて武虎だった肉の塊だ。逆立っていた髪は力なく垂れ、安物のワイシャツは血に汚れ、黒いズボンは所々が裂け、銀色の拳銃はもう無い。

 みすぼらしい亡骸を前に、ルノはもうそれを見ていなかった。

 過ぎ去った風の行く末を、遠い目で見つめていた。

 ───にぃ。

 風に震えた猫が鳴く。

「うん……。そうだね。帰ろう」

 雨はもう止んでいた。




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